私の旅行記というか旅行雑感を書いています。Tripuncleのお店に来る人にも役に立てば嬉しいです。
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2015年12月にネットショップ「Tripuncleアジアの暮らし雑貨」をオープン。関連記事も書いていきます。 Tripuncle アジアの暮らし雑貨にて、少しでも旅に行った気分になっていただけたら、という想いを込めて。。

トリップアンクル縮小版


1995年2月20日

やっと怪しげなホテルのグループの連中から逃れられたので、
まずは一安心といったところでしょうか。
とは言っても、この5人組は海外旅行経験者はMさん一人。
残りは全員海外が初めて、しかもインドに来てしまった・・・

Mさんが先頭になってメインバザールへ突入していくことになったのでした。
ここの雑踏はものすごい。
何と表現したらいいのか、言葉に苦しむが、
幅員5mの舗装もままならない道路。例えて言うなら、東京・上野のアメ屋横丁のような道と言えばおわかりいただけるでしょうか。
その狭い道には、人はもちろん、トラック、タクシー、オートリクシャー、リヤカー、自転車、犬、牛などなど、様々な物が極めて無秩序に行き交っている。クラクションの音も常に鳴りっぱなし・・・。

人が歩いてるっていうのに強引に突っ込んで来ては、停車するトラックやタクシー。それに対してヒンディー語で何やら喚いているインド人たち・・。知らない言葉で喚かれると、何だか怖い気もする。
いったいここはどこなんだろうか?・・・
あまりの秩序の無さというか、インド人の勢いに、かなりビビって一瞬動けなくなるが、
我々の一行5人は、Mさんを先頭に、その雑踏の中を進んでいったのでした。

両側にはホテルらしき看板もちらほら。
しかし、とても入れる雰囲気ではない・・・・
一行の誰かが、ANOOPというホテルがましだと聞いているとの情報をもたらし、
このメインバザールのかなり奥に位置するANOOPというホテルまで歩いていくことになったのでした。

途中でトイレ休憩。
と言っても、道端の壁に便器が3つ並んでいるだけのトイレ。
ここで順番に用を足す。用を足している間は、他の者が背後を固めるというチームワークを我々は見せ付けたのでした。
このトイレは一人では怖くて、用を足せませんよ。本当に・・・
インドに行く人、特に女性はトイレに気を使った方がよいかもしれません。

そして、我々5人はANOOP HOTELにまた一歩、また一歩と近づいていったのでした。
1995年2月20日

狭い舗装もろくにしていない、砂埃舞う道であるメインバザールを
インド人の雑踏に負けず、ずんずん進んでいきました。
行き交う様々な人、車、リキシャ、リヤカー、タクシー、もうめちゃくちゃです。
ふと道端に目をやると、道の両側には怪しげないろんな店が並んでいます。

バックパックを背負った我々にインド人達は
「ハロー!ジャパニ!」と盛んに声を掛けてきます。
時たま、前方から旅慣れて、インドに馴染んでいるかのような格好をした日本人が来ては、
「こんにちは」と声を掛けてくれるのでした。
こちらも「こんにちは」と返事を返します。

海外旅行初めての身にとってはこういうことは、何となく安心感があるものなんですね。
同郷の何とかとか言うのでしょうかね。

そうして、進んで行き、ようやくANOOP HOTELに到着するに至ったわけです。
ここで部屋の空きを確認すると、5人部屋なら空いているというのです。
部屋を見せてもらうと、5人分のベッドが並ぶ言わば、ドミトリーのような部屋でした。
しかし、シャワーもトイレも付いていることだし、綺麗だし、まあいいかということで決めました。
というか、みんな昨晩からインド人に小突き回されて、かなり疲労困憊していたので、
もうどうでもよかった。早く自分たちのペースで旅をしたいという思いがきっと強かったのでしょう。

早速、このホテルの屋上のレストランで食事になりました。
もうお昼近い時間。
朝からほとんど何も食べてない状態でしたから、お腹も空いていました。
このレストランの価格表をみて、昨晩の屋台は明らかにボッタクリということがわかりました。
インドは本当は安いのです。

そして、ここで適正価格もわかったことだし、
これから始まるインドの旅についても、少しずつ行けそうな気がしていました。
このインド初めての日本人5人も、やっと洗礼を受けた後の安堵感に包まれたのでした。
やっぱり、ゆっくり食事をするということは大切なんですね。
旅と食の関連性の大切さとでも言いましょうか。

1995年2月

ANOOP HOTELに落ち着いた、我々日本人の5人組は、この後それぞれがバラバラの方向へ散っていくことになります。
これがまた旅の面白さなんですね。
もしかしたらまたどこか他の、まったく違う国で会うかもしれませんし、
または日本で会うことになるのかもしれません。

この後、少しデリーを観光しました。
といっても、ラールキラーという、昔のお城を眺めに行ったくらいですが・・・。
少し大型のリキシャと交渉して、連れて行ってもらいました。
交渉中にいくらなんでも安すぎると思ったのですが、やはり途中から違うことを言い出して・・・。
提示料金は片道だというのです。交渉時には往復で交渉しているのに、途中から話を変えてくるのでした。
しかし、このターバンを巻いたインド人のおっちゃんは、まじめそうな人だったので、交渉中に少し可哀相にもなってきました。
ただここで甘い顔をすると、ろくなことにならないかもしれない。
なんて思いもあったりして、複雑な心境になりますよね。

出会うインド人にしても、いい人も居るし、悪い人もいるわけですからね。
悪い人に当たるときは、とことん当たりますから・・・
それを見極める力とでも言うのでしょうかね。
すべて信じずに疑ってばかりいても面白くない、しかし信じたら最後騙されるかもしれない。
この狭間で、旅行者はいつも旅をしてるんじゃないでしょうか。
これがまた旅の面白いところでもあるんですね。

ただ当時はここまではわかりませんでした。
もしかしたら、このデリーの大型リキシャのドライバーには、悪いことをしてしまったのかもしれません。

それにしても、デリーの街はすごい数の車とリキシャと人でした。
まさに喧騒ですね。クラクションの音もかなりうるさいです。だって鳴らしっぱなしなんですから・・
誰かが、スイッチを押したらクラクションが鳴り止むように改造したほうがいいのでは?と言っていたのを思い出します。
現在のデリーもこんな喧騒状態なのでしょうか。

リキシャやタクシーの信号待ちでは、バクシをおねだりに来る、子供を抱いたお母さん。
細い手で「バクシーシ」と言ってすこしばかりのお金を、もらいに来るのです。
はっきり言って怖かったですよ。最初は・・・
ただこれにも慣れてきましたけどね。

1995年2月

こうして、インドも海外旅行も初めての人が多かった5人組日本人グループも、
みんなそれぞれ、自分の思い思いのルートに散っていくことになったのでした。
日本か、もしくはインドでの再開を約束しつつ・・。

私はまず西インドのボンベイに行き、そこから南インドののコバラムビーチ目指して南下していこうと考えていたので、まずはボンベイへ行く、夜行特急の手配をしなければなりませんでした。
ニューデリー駅にある、外国人専用窓口へ赴き、チケットを購入です。
寝台は敬遠して、普通のリクライニングする座席のAC車両、AC CHAIR CARを予約しました。
ラジダーニは特別な特急なのか、食事も出るとのことでした。

ここでさらに一つ難関が待っていました。
ボンベイへのラジダーニエクスプレスは、ニューデリー駅でなく、ニザムウッディン駅からの発車だと窓口氏は言うではないですか。
また一つ不安が・・・
どうしても駅名に確証が持てないので、紙に駅名を書いてもらったのでした。
地図で確認してみると、確かにニサムウッディン駅はありました。
チケットを確認してみたら、やはりここからの出発となっています。
何が起きるかわからないインド・・・不安を抱えたまま、ボンベイへの出発の日を待つことになったのでした。

メインバザールのANOOPの5人部屋は寂しくなり、もうTさんと私の2名しか居ません。
明日Tさんはバラナシヘ出発。私は明後日の夕方ボンベイへ向けて出発です。
明日はメインバザールから、別の場所、できたら駅に近い方に宿を変えようと思いました。
いよいよ、インドでそれぞれの一人旅が始まろうとしていたのでした。

この先どんなことになるか、全く見当もつかないまま、ドキドキしていたのでした。
まったく懐かしいもんです。
初めての海外旅行って、本当にこんなもんなんでしょうかねえ。緊張しすぎですよね。
もっとリラックスしなといけないのですが、当時はそれどころじゃなかったのです。
まったくお恥ずかしい限り・・・

結局メインバザールのANOOPは、最終の夜は私一人になってしまうので、
ホテルを移ることにしました。
一緒のTさんは,今晩バラナシヘ移動してしまいます。

一人でメインバザール宿泊は今考えたら、全然問題ないのですが、
当時はやはりビビッていたんでしょうね。まったく・・・
ニサムウッディン駅が、コンノートプレイスよりもまだ南にあることが判明していたので、
できたらコンノート周辺に泊まろうとか考えていました。
ガイドブックを見る限り、安めのところは1箇所のみでした。

メインバザールを後にして、
バックパックを背負いながらテクテクと歩き、コンノート方面へ向かっていきました。
途中、いろいろなインド人が寄ってきます。

何を買えとか、バクシをしてくれ、リキシャはどう?
ホテルは決まってるのか?どこに行くんだ?日本には友達がいるんだ・・
とまあうるさいこと・・・
しかしこれにめげていては、どうにもならないので頑張って歩きます。
しかし、インド人は何かにつけて「No Problem!」を連呼するんですね。
問題があってもなくても、「No Problem」これはインド滞在中一番聞いた言葉ではないでしょうか。

コンノートプレイスでは、ウンコを投げてくる子どもの襲撃におびえながら歩いたものです。
まずいことに、バックパックを背負ってフル装備の状態なので、
明らかにこちらは不利・・・バックパックが無ければ、また対応も変わるのでしょうが・・・

やっと目的地のホテルに着きました。
建物は10階くらいはあるんでしょうか。とても立派です。
中に入ると、意外と高級ではなさそうで、値段を確認したところ、当時の値段で300ルピーくらいだった記憶です。
ところが、このホテルの名前を失念してしまったので、
場所を思い出そうにも、思い出せないのです。

たぶんコンノートより南側。それもそんなに離れていない南側です。
当時の東京銀行(現在は東京三菱UFJ)に割かし近かったと思うのですが・・・
で建物は結構な高さがあり、10階立てくらいだったような。
この地下の食堂で朝食を取った記憶があります。

だれかこれだけの記述で、ホテルを当てられる人はいませんか?
コメントをお寄せください。

1995年2月

いよいよ一人で行動を開始です。
デリーの空港から行動を共にしてきた日本人5人組は、それぞれの旅路へと向かっていきました。
私も自分の旅路を開始することになったのでした。

名前を忘れてしまったのですが、
コンノートプレイスに程近い、10階建てくらいのやや古ぼけたホテルで、まずは朝食です。

下のほうの階にあるレストランで食券を買ってみたところ、
係のおじさんは早速釣銭を少なくよこして、わずかなお金を掠めようとしました。
釣銭が違う旨を告げると、
「What?」とか言って、愛想のいい笑顔を浮かべ、さらに誤魔化そうとするのでした。
それでも、こちらが釣銭が違うとしつこく言うと、
バレたかあ・・・といった顔をして、しぶしぶ正しいお釣りを返して寄こすのでした・・・。

いったい何人の旅行者が、お釣りを騙し取られているのでしょうか。
塵も積もればで、かなりの金額になってるはずですね。
このおじさんにとっては、いいお小遣いでしょう・・・。
これもインドの洗礼の一つになるのです。
そんな朝に始まりました。

本日予約してある、ボンベイ行きのラジダーニエクスプレスは、夕方の16時にデリーを出発とあります。
チェックアウトは11時ごろなので、
少しホテル周辺をうろついて散歩です。

じっくりデリーのコンノート周辺を歩いてみて感じたのは、
まず人が多いということです。
メインバザールほどではないのですが、ある程度の混沌が見てとれます。
行き交うリキシャやら、タクシー、人を満載したバス・・・
歩道にはたくさんの人々。少し歩けばバクシーシの攻撃にあう・・・
コンノート周辺では、強引に靴を磨こうと躍起になって、旅行者を追い回す、小学生くらいの子どもたち・・・
彼らは学校にも行かずに、こうして生計を立てているのでありましょう。

日本しか今まで知らなかった自分が、何と視野の狭い人間だと思ったものです。
世界にはいろんな人が居て、生活しているんだなあ。
もっといろいろな世界を見なければならないなあ。
と漠然と考えていたものです。
3日間ほどデリーに居て、ここでインドの歩き方のコツみたいなものがわかりかけていたのでしょうかね。

1995年2月

いよいよデリーを去ります。
ラジダーニエクスプレスで、西インドのボンベイ(ムンバイ)へ向かうのです。
コンノート周辺で、流しているリキシャを捕まえて、交渉します。
コンノート周辺あたりからだと、ニザムウッディンという鉄道の駅までは、
南へ約6キロとガイドブックに記載がありました。

リキシャはいくらでもいますので、まず1台目という風に交渉に入ります。
バックパックを背負った日本人なら、リキシャはどんどん寄ってきてくれて、
「どこへ行くのだ?」と聞いて来ます。
そのうちの1台が、まあ妥当と思える金額を提示したので、交渉がまとまりました。
何バーツだったかは忘れてしまいまいしたが、6キロという距離を考えたら、安いのでは・・
と思ったものです。

後は、このリキシャを信用して、連れて行ってもらう以外にはありません。
リキシャは走り出します。
自分で何となく覚えていた地図を頭の中に思い描くと、合っているような気が・・・
そんな自分の心配をよそに、リキシャはどんどん進んでいきます。
景色はインドの混沌の光景。リキシャ、タクシー、人、大八車みたいなの、自転車のリキシャ、バス・・・
もう何でもかんでもごちゃ混ぜになって、車線なんかは完全に無視したような格好でひしめいていました。
そんな中をスイスイと走り抜けていくリキシャ。

もう何分くらい経っているのか、わかりませんが、
どうやら目的地であるニザムウッディン駅に到着したみたいです。
周囲には確かに駅らしいものはあって、線路もあるのですが、やや大きな駅を想像していたので、不安になります。
ただ、駅の看板らしきものは、ニザムウッディンとなっているし、
リキシャの運転手に何回も確認したところ、間違いなさそうです。

やれやれ「ありがとう!」となんだか嬉しくなって、しっかりお金を払いました。
ついでに右手で握手。左手はインドでは不浄の手になりますから・・
今までリキシャといえば、まっすぐ目的地に行かないことが多かったので、
本当に「珍しいなあ」と感じたものです。
そして、思ったよりも小さなニザムウッディン駅へ入っていったのでした。

ニザムウッディン駅は、小さな駅でした。
ここからボンベイ行きの、ラジダーニエクスプレスが出発するのです。
とりあえず、食事は車内で提供されるとの情報でしたので、
簡単な軽食になりそうなお菓子や、水などを買いホームに降りました。

記憶ではこのニザムウッディン駅は、ホームは2面しかなかったような気がします。
こんな小さな駅から、ラジダーニエクスプレスという優等列車が発車するのかという疑問もありました。
駅には1時間前には到着していましたので、ゆっくり見学と行きたいとことなんですが、
どこに居ても人が多いのがインド。
この駅もご他聞にもれず、かなりの人が集まっていました。
みんな何をしている人たちなんでしょうね。

そうこうしているうちに、ボンベイ行きラジダーニエクスプレスが入線してきました。
優等列車だけあってかなり長い編成です。
ほとんどの車両が寝台車となっていて、私の乗るのはエアコン付きの座席車両。
このラジダーニエクスプレスには、エアコン付きの車両しか連結されていないようです。
ほとんどが寝台車両でしたので、自分の車両を探すのに一苦労。
何とか車両を見つけ、自分の座席を見つけ、荷物をチェーンで棚に縛って・・・
とやることは多いのでした。

やがて発車の時刻になり、ゴトリと何の案内もなくいきなり発車。
ほぼ定刻通りなのでびっくりしました。
やはりラジダーニエクスプレスは、インドの中では優等列車なのか・・・と思ったものです。

車内はそれほど混んでいるわけではなく、
エアコンは寒いくらいに効きまくっています。
日本から持ってきた薄手の長袖を着用。何故こんなにエアコンを効かせているのでしょう・・?

座席はタイにあるAC2等と同じような構造で、リクライニングも一応はします。
窓はエアコン効果を高めるためか、すべてスモークが張られています。
こちらから表は何となく見えますが、外から中はおそらく見えないでしょうね。
ところで、今でもこれらの車両は現役なんでしょうか。もう15年も前なんですが・・・まあおそらく使われていることでしょう。

こうして、ボンベイ(ムンバイ)へのラジダーニの旅は始まったのでした。
予定では翌朝の8時半にはボンベイセントラル駅に到着予定。
窓の外のインドの光景をボーっと見ているうちに夜は更けていくのでした。


1995年2月23日のこと

こうしてデリーを離れたラジダーニエクスプレスは、闇の中を走り、
一路ボンベイ(ムンバイ)に向かいました。
インドの夜行列車は当然初めてです。

車内では、水などが配られました。
最初は、この水を貰っていいのかわからなかったのですが、
運賃に含まれていて、後ほど食事というか軽食も出るとのことで、一安心。
後からいろんなお金を請求されることに、懲りていたので、このあたりの警戒心はもう根付いていたようです。
この後確かに、食事は出ました。
でも、何が出たのかはよく覚えていません。

お水については、駅などでよく売っているのは、ペットボトルの蓋がしっかり閉まっているか確認してからになりました。
これは、インドの子どもが、そこら辺の蛇口から空のペットボトルに水を汲んで、もう一度蓋を閉めて、再販売しているのを目撃してしまったからです。
そんな水を飲んでしまったら・・・と考えると恐ろしくなりますね。
ペットボトルの蓋はしっかり確認と。

ラジダーニは、ボンベイへ向けて走り続けますが、窓の外は全くの闇。
何も見えない景色を見ているうちに、眠たくなってきました。
荷物がしっかりと、棚にチェーンロックで結ばれているのを確認して、ウトウト眠りました。
2等座席はリクライニング式になっています。
(タイの2等座席に似ています)

何時間経ったのでしょうか。
インド人がヒンディー語で怒鳴り合っている声で目が覚めます。
目を開いて、周囲の様子を窺ってみると、どうやら車掌と乗客がやり合っています。
インドでは暴力事件は少ないと聞いていたのですが、
知らない言語での怒鳴り合いというのは、見ていて不安になるものがありますね。
まったく何を言っているのかわからないし、顛末を見ていないので、想像もつかず・・
ただただ、傍観するのみです。
いやあ、怖かったですよ。周りにもインド人は居たのですが、とめる様子もないし・・
なので、そんなに大した話じゃなかったのだな、と今になって思うのですが、
当時は、ただでさえ初めての海外旅行で不安なのに、こんな状況になると、ますます不安は増殖していきます。

喧嘩が収まると、また知らないうちに、眠りにつき、
気が付くと外は明るくなっておりました。
ふと自分の荷物に目をやると・・・・ありました。
「ああよかった・・・」と心の中でつぶやいたのでした。

ほぼ定刻にラジダーニエクスプレスは、ボンベイ(ムンバイ)のセントラル駅に到着。
インド一人旅の夜行列車移動という関門を、突破したのでした。
(慣れれば全然大丈夫なんですが・・・)

1995年2月24日

こうして、ボンベイセントラル駅に、ラジダーニエクスプレスはほぼ定刻通りに到着しました。
時間にして、朝の8時半ごろでしょうか。
このセントラル駅からさらに、チャーチゲート駅まで郊外電車で移動しなければなりません。

困ったことに、朝の通勤時間とあってかセントラル駅は人でごった返しており、
何となく殺気立った雰囲気が・・・

チャーチゲート駅へ向かう列車のホームはすぐにわかったのですが、
チケットをどこで買ったらいいのか、全くわかりません。
駅の外へ出てみたり、構内をあっちウロウロ、こっちウロウロしながら、
適当な窓口で聞いてみようとするものの、窓口が人で一杯でどうしたらいいのやら・・・

困り果ててウロついていると、
東南アジア系の顔をした人がいるではないですか・・・
もしかしたら日本人?何か知ってるかも・・?と思いつつ声を掛けてみると、
韓国人の人でした。

状況を説明して、チャーチゲート駅へ行きたいが、チケットをどこで買うか知っていますか?と聞くと、
手馴れているらしく、窓口へ案内してくれました。
人のごった返すあの窓口へ入って行き、見事チケットをゲットです。すばらしい・・・
多少の強引さは必要なんだなということを教えてもらった気がしました。

そして嬉しいことに、チャーチゲート駅まで案内してくれるとのこと。
日本でいう山手線みたいな感じの、郊外電車に乗車して4駅で、チャーチゲート駅です。
この電車がまたすごいのです。
我々の行くチャーチゲート方面はまだ空いているのですが、
逆方向となると、とても混んでいて、鈴なりになっているとはこのことか・・と思うほどインド人で溢れ返っているのでした。

この電車はたしか、ドアは手動式で開け放たれていたと記憶しています。
女性専用車もありましたよ。
日本の電車とはとにかくかけ離れていて、恐ろしい電車で、ただただ驚くばかりです。
こんな電車に4駅揺られて、ボンベイ(今で言うムンバイ)のチャーチゲート駅まで辿り着くことができました。

困っていると、何故か助けはくるものなんですね。
今思うと、旅のめぐり合わせって、本当に不思議だなあと思います。
1995年2月24日

何とか、韓国人の助けもあって、辿り着いたチャーチゲート駅。
ここから歩いて宿を探します。
韓国人は、サルベーションアーミーという宿に行くと言います。
私は、その宿でなくて、違うホテルへ行くことにしました。
礼を丁重に述べて、別れました。この方がいなかったらどうなっていたことでしょう・・・
きっとまたどこかで会うことを願いつつ。

私の泊まった宿は名前を忘れました・・・
が・・・確かApolloだったような気もします。
インド門からそれほど遠くなかったですから。
歩いてインド門まで近かったような気がしますが・・・

とにかく、この日は次のインド南部への移動のための飛行機の予約をするために、
宿に荷物を置いた後は、インディアンエアラインのオフィスに向かいました。

移動手段はとにかく歩きです。
暑い中地図を頼りにインディアンエアラインのオフィスを目指しました。
帰国便のエアインディアは、ボンベイ発となっていたので、またボンベイに戻ることになりますから、
すぐにボンベイを出て、南部に向かうと決めていたのです。

てくてく歩く途中、怪しげなおっさんが寄ってきました。
話しかけてきて、「私は住友銀行の行員だ」というのです。
それがどうしたの?という感じですが、
とにかく困っているお寺があるので、一緒に来てくれないか、で少し祈って欲しいみたいなことを言うのです。
ここではお金は要らないみたいなことを言ってました。
何とも怪しいし、そもそも住友銀行がボンベイに支店を持っているとは思えなかったので、
とても信用できる話ではないと判断、結局何とか断りました。

後になって、ついて行ったという日本人に会いましたので、その方からの情報によると、
確かにお寺のようなところに連れていかれ、祈ったので帰ろうとしたら、そこでお金を払えと要求されたようです。
脅されたりはしなかったみたいですが、あまりいい感じはしないと。そりゃそうですよ。
新手の手口?だったのでしょうか。

今もあのおっさんはいるのかなあ・・・なんて思ったりもします。
今では三井住友銀行と名乗ってるんですよね?きっと。

ボンベイ(ムンバイ)滞在初日
1995年2月24日

住友銀行の変なおっさんに出会ったものの、なんとかパスして、インディアンエアラインのオフィスに着きました。
これから先のこのインドの旅は、南インドへ向かう計画です。
本当は汽車の旅をしてもいいと思ったのですが、
広大なインドの大地につき、所要時間が長すぎるため、
根性のない私は、飛行機という楽な選択肢を選んでしまったのでした。

何故南インドなのかと言いますと、
まず海でのんびりしたいということが第一に挙げられます。
綺麗な海でも見ながら、のんびり読書でもという、非常に気楽な考えを持っていたものですから・・

インドには、ムンバイから程近い、ゴアという海沿いの町もあるのですが、
コバラムビーチという南インドのトリヴァンドラムという街からバスで30分くらいのところに、
よいビーチがあるということを発見し、そこにどうしても行きたくなったのでした。

コバラムビーチが、このインドの旅の主目的ともなっていたのです。

早速インディアンエアラインのオフィスで、往復のチケットを購入しました。
国内線ということで、まだ安い方でした。
帰りは、またボンベイに戻って来るのですが、トリヴァンドラムの単純往復では面白くないということで、
コーチンからボンベイに戻ることにしました。
コーチンは、アレッピーという水路のある町への起点となる場所でもあります。
が、今回は時間の制約上、そこまでは周りきれないので、コーチンはただ行くだけになりそうです。

早速明日の移動ということに決めました。
ボンベイはまた戻ってくるので、散策は後回しです。
ある意味、ここからまた面白い旅の始まりになりました。

初めての海外旅行のデリー到着の初日から比べたら、たいぶインドに慣れてきました。
インド人との交渉などにも、少しずつ慣れてきたのを感じ、
人間はその場所に適応できるものなんだなあ・・なんて漠然と考えていたのを覚えています。
デリーよりボンベイの方がうるさくないので、町歩きにはよいのかもしれません。

次回はボンベイの国内線空港、サンタクルズ空港までの道のりなどについて、書きます。